おっさんから1万7千円を取り戻せるのか?〜特殊詐欺被害の力学

引用元:[青森テレビ](2026年8月14日)

青森県内に住む20代男性が、SNS「Discord」を通じて約1万7000円をだまし取られる事件があった。男性は「性的サービスを提供する」という趣旨の投稿を見つけ、アカウント名「○○な」にDMを送信。サービス代1万3000円とホテル代3900円をPayPayで支払い、指定されたホテルで待ったが、相手は現れなかった。……現れなかった😭

おはこんばんにちは❗力学観測研究所のRYOです❗

ニュースだけを読めば、「怪しい相手に先払いしたら来なかった」という話である。警察も、甘い誘惑には安易に乗らず、金銭を支払う前に家族や知人、警察へ相談するよう呼びかけている。

それはその通りなのだが、今回は少し違うところから観測してみたい。

まず、よく警察に言った

被害額は1万6900円。決して小銭ではないが、警察へ行って被害に至った経緯を最初から説明するくらいなら、「勉強代だった」と泣き寝入りする人がいても不思議ではない。

「Discordで性的サービスの投稿を見つけた/DMした/1万6900円を払った/ホテルで待っていた/来なかった」。これを警察官に説明したわけで、なかなかの精神力🔥である。

しかし詐欺をする側から見れば、この「恥ずかしいから警察には言いたくない」は非常にありがたい。被害者が黙れば事件そのものが表に出ないからだ。そう考えると、この男性が被害を申告した意味は被害額以上に大きい。

笑うところがあるとすれば事件の珍妙さであって、被害を届け出た男性ではない。よく警察に言った。ここは真面目に評価したいところです。

警察から見れば「よっしゃ」かもしれない

今度は観測座標を警察側へ移してみる。

被害者から見れば「1万6900円を取られた事件」だが、警察から見ればDiscordのアカウント/DMの履歴/PayPayの支払情報/取引日時/指定されたホテル/待ち合わせ日時と、捜査の手掛かりになり得る情報がかなり残っている。

もちろん実際の捜査員がどう反応したかは分からない。それでも心の中で「よっしゃ、アカウントゲット」くらいの小さなガッツポーズがあっても不思議ではない。

同じアカウントや送金先が他の被害にも使われていれば、一件の被害届から複数事件がつながる可能性もある。キャッシュレス決済は犯人にとって便利な道具である一方、取引記録を残す装置でもある。

PayPayは、捜査機関から情報開示要請を受けた場合、必要性や相当性を審査したうえで、登録情報、取引履歴、銀行口座情報、本人確認情報などを開示する場合があるとしている。また「個人間送金機能を悪用した詐欺」も、情報開示に対応する場合がある具体例として挙げている。

1万6900円だけを見て「小さな事件」と考えると、この力学は見えてこない。

刑事と民事は別問題

では犯人が特定されたとして、払った1万6900円は返ってくるのだろうか?

ここで刑事と民事を分ける必要がある。

相手が最初からサービスを提供する意思もなく、嘘を使って男性に金を支払わせたのであれば、刑法246条の詐欺罪が問題になる。一方、「犯人を処罰できること」と「被害者が1万6900円を取り戻せること」は同じ話ではない。後者は民事の問題である。

民法96条では、詐欺による意思表示は取り消すことができる。通常なら「だまされて支払った→意思表示を取り消す→返還を求める」という方向がまず頭に浮かぶ。

ところが、このニュースには法律好きが少し反応しそうな言葉が入っている。

「性的サービス❤」

ここから民法が面倒になってくる。

民法90条「その契約、大丈夫?」

民法90条は「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする」と定めている。いわゆる公序良俗である。

ただし、今回の報道は「性的サービス」としか書いていない。具体的に何を約束していたのか分からない以上、この実際の事件について「民法90条に反する契約だった」と断定することはできない。

そこで、ここから条件を一つ加えた思考実験をしてみる。

仮に、約束されていたサービスの内容そのものが公序良俗に反するものだったら?

契約が無効なら、「では1万6900円を返してください」で済みそうに見える。ところが返還の場面には、民法708条という少々クセの強い条文が待っている。

民法708条「知らんがな」

民法708条「不法原因給付」と呼ばれる規定で、不法な原因のために給付したものについて、原則として返還請求を認めない。ただし、不法な原因が受け取った側にだけ存在した場合は例外とされている。

かなり乱暴に言えば、「社会的に許されない取引に自分から参加しておいて、都合が悪くなったら裁判所に後始末を頼むのはどうなん?」という考え方である。

違法な取引のために自分から金を渡し、その取引がうまくいかなかったから「無効なので返してください」が何でも通るなら、司法が違法取引の巻き戻しサービスになってしまう。

裁判所「知らんがな」

……とまで条文には書いていないが、方向感としてはそんなに遠くない。

もちろん、「公序良俗に反する契約だから、払った金は自動的に708条で返ってこない」と単純化するのも危険である。何が「不法な原因」に当たるのか、金を渡した側と受け取った側にどのような事情があったのかなど、具体的な事実関係を見なければならない。

そして708条には、先ほど触れたただし書きがある。

「不法な原因が受益者についてのみ存したときは、この限りでない。」

1万6900円だったはずの話が、急に法律の試験問題のようになってきた。

PayPayが「出せません」と言ったら?

刑事捜査側にも、もう一つ力学がある。

警察がPayPayへ「この送金先の情報をください」と問い合わせたからといって、PayPayが何でも自動的に開示するわけではない。PayPayは利用者の個人情報を原則として本人の同意なく開示せず、捜査機関からの要請についても必要性・相当性を審査し、合理的な理由がある場合に必要最小限の情報を開示するとしている。

捜査機関には刑事訴訟法197条2項による捜査関係事項照会があり、公私の団体へ必要事項の報告を求めることができる。一方、必要があれば刑事訴訟法218条に基づき、裁判官の令状による差押えや捜索などの強制処分へ進むこともある。PayPay自身も、この二つを情報開示要請の法的根拠として区別している。

つまり「警察→PayPay」で終わらず、場合によっては「警察→裁判官→令状→PayPay」となる。

ちなみにPayPayの透明性レポートによると、2025年7月から12月までに捜査機関から受けた情報開示要請は1万8520件で、開示割合は85%。ここには捜査関係事項照会と令状に基づく要請の双方が含まれている。

1万6900円の事件から、刑法、民法、刑事訴訟法、個人情報保護まで出てきた。

法律は容赦がない。

【ここから完全な架空事例】犯人がおっさんだったら?

最後に、実際の事件から完全に離れて条件をもう一つ加えてみよう。報道からアカウント使用者の性別や年齢は分からないため、以下はあくまで思考実験である。

警察が捜査を進め、「性的サービス❤を提供する」と投稿していた人物を特定した。逮捕してみると、女性ではなかった。

おっさんだった

しかも女性を装っていただけでなく、最初から約束したサービスを提供する意思などなく、1万6900円を取ることだけが目的だったとする。

こうなると、708条をもう一度眺めたくなる。

これは「双方が不法な取引に参加し、その一方があとから返金を求めている」というだけの事件なのか。それとも、一方は何らかのサービスが実際に提供されると考えて金を払い、もう一方は最初から架空の人物像を作り、サービスをする意思もなく金だけを取ろうとしていた事件なのか。

そこで被害者が、

「おっさんだとは知らなかったので、民法上は善意の被害者です」

と言っても、「善意」という法律用語はそんな便利な必殺技ではない。

裁判所「・・・その善意はいったん置いておきましょう」

しかし冗談のような設定でも、検討すべき問題は本物である。誰が何を認識していたのか/誰にどのような不法性があったのか/そもそも受け取った側に契約を履行する意思が存在したのか。条件を一つ変えるだけで、法律上の評価も動いていく。

法学とは、こういうところが恐ろしく真面目な学問なのだ。

法律は、事件の品格を選べない

元のニュースは、Discordで性的サービス❤を申し込み、PayPayで1万6900円を払い、指定されたホテルで待っていたが相手が現れなかったという事件である。

しかし観測座標を少しずつ動かしてみると、被害申告をためらわせる心理/警察にとっての被害届の価値/刑事責任と民事上の返還請求/公序良俗/不法原因給付/決済事業者によるプライバシー保護/捜査関係事項照会/令状と、まったく異なる力が次々と姿を現す。

そして、この一連の力を動かす最初のスイッチを押したのは、「もういいや」と泣き寝入りせず、警察へ被害を申告した20代男性だった。

だから最初の話に戻る。

被害者君、よく警察に言った

もし今後、「犯人を逮捕しました。男でした」という続報まで出てきたら、そのときは民法708条をもう一度開けばいい。

法律は、事件の品格を選べない

世間から見ればコントのような思考実験――犯人がおっさんだった場合――であっても、警察も裁判所も、そして法学も、死ぬほど真面目に考えなければならないのである。

※本稿は報道された事件を入口として、一般的な法律制度について考察したものです。「犯人がおっさんだった」以降は完全な架空の思考実験であり、実際の事件関係者の性別、年齢その他の属性を示すものではありません。また、報道では「性的サービス」の具体的内容が明らかになっていないため、実際の事件に民法90条や708条が適用されると断定するものではありません

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です