おはこんばんにちは!力学観測研究所のRYOです!
「ChatGPTが書いた小説」と「人間が書いた小説」。人はどちらを好むのか。
CNET Japanが紹介した米ビラノバ大学の研究では、意外にも参加者から高く評価されたのはChatGPTが生成した短編小説でした。第1実験には18~81歳の成人1,682人が参加。人間またはChatGPTが書いた短編を読み、作品の質や物語への没入度を評価しました。その結果、AI生成作品は人間作品より高く評価される一方、同じ作品でも「人間が書いた」と説明された方が評価が高くなりました。続く実験では、人間作品とAI作品を読ませて作者を推測してもらいましたが、参加者は明確に見分けることができなかったらしい。
ここまでは非常に面白い研究です。ところが、日本語の記事を読んでいると別のところが気になる。
日本語だけ読むと、確かにAI版の方が読みやすい
CNET Japanの記事には、研究で使われた作品の一部が日本語訳で紹介されています。AI生成作品では、池のほとりで母を思い出し、秋の葉や水面を泳ぐ鯉を眺めながら、人生の変化と変わらないものについて考える場面が引用されています。母/池/秋の葉/鯉/水面/変化/安らぎ。多少「綺麗にまとめすぎるChatGPT感」はあるものの、意味は一読して分かります。
一方、人間作品では「出産」を軸に比喩が展開します。登場人物は産みの苦しみの中にいる/語り手は助産師役/夫は落ち着かない父親役――という文章です。これは長い作品から切り出された一部分ですが、日本語だけを並べて読むと、こちらは少々古い翻訳小説、もっと言えば一昔前の翻訳ソフトを通した英語のようにも見えます。
アメリカ映画やAppleのプレゼンを直訳すると、突然やたら壮大な日本語が現れる、あの感じ。英語では自然なのかもしれない。しかし日本語にすると、ちょっと「アップル大喜利」が始まってしまう。
しかし、これは日本語の小説ではない
そこで当たり前のことに気づきます。この実験は英語で行われています。日本語読者が目にしているのは、英語の原文 → 日本語への翻訳 → CNET Japanの記事 → 日本語読者、という経路を通った文章です。
小説では、語順、リズム、曖昧さ、比喩、文化的な連想まで作品の一部です。英語では自然な表現でも、その構造を保ったまま日本語へ移せば、大げさだったり説明臭かったりする文章になることがあります。つまり、われわれが比較しているのは単純な「ChatGPTの文章 vs 人間の文章」ではありません。翻訳というレンズが一枚挟まっています。
元論文を見ると、ChatGPTは「何もないところ」から書いていない
元論文を確認すると、もう一つ重要な点があります。研究では3本の人間作品に対し、それぞれに対応する作品をGPT-4に生成させています。
たとえば人間作品『FISH』に対応するAI作品『Reflections in Still Water』では、「世代をまたぐ生と死/不確実性/鯉を象徴として使うこと/成長した子どもの視点」といった具体的な条件がGPT-4に与えられました。つまり、「はい、小説を書いて」と丸投げしたわけではありません。人間作品からテーマ、象徴、視点などを抽出し、それに対応する条件を与えたうえでAI作品を生成しています。
研究上、比較条件を揃えるためには合理的な方法でしょう。ただし一般向けに「AI小説と人間小説、どちらが上か」と読む場合には、この実験条件は知っておいた方がよさそうです。
ソシュールを物差しにする
ここで言語学者フェルディナン・ド・ソシュールを観測道具として借ります。ソシュールは言語記号を、大まかに「シニフィアン(言葉として現れる形)」と「シニフィエ(そこから想起される意味)」の関係から考えました。
AI作品に登場する、母/池/秋/落ち葉/鯉/水/人生の変化/安らぎ、という記号は、それぞれ比較的素直に意味へつながっています。秋の葉が落ちる/鯉が泳ぐ/母を思い出す/変化し続ける人生の中で、変わらないものに安らぎを感じる。この意味関係は、英語から日本語へ移しても比較的保存しやすそうです。
一方、人間作品では、出産 → 産みの苦しみ → 助産師 → 父親 → 神聖な出来事、と一つの比喩を中心に意味が連鎖します。ここでは単語そのものだけでなく、その言語や文化の中で成立している連想まで表現の一部になります。すると英語では文学的だった文章が、日本語では突然「私は助産師役を務めています」となる。意味は分かる。ただ、ちょっと濃い。

AI文章は「翻訳に強い」のか?
ここから先は研究結果ではなく、一つの仮説です。もしかするとAIの文章は、単に簡潔だから読みやすいのではなく、別の言語へ移しても意味関係が壊れにくい文章を作る傾向があるのではないでしょうか。
大量の文章を学習したLLMは、多くの文章に共通する表現や構造へ寄りやすい。それは文章の平均化/癖の弱さ/どこかで読んだような表現という弱点にもなります。しかし反対から見れば、「意味を別の言語へ運びやすい構造」になっている可能性もあります。
「AIには人間のような文学性がない」と見ることもできる。逆から見れば、「だから翻訳しても崩れにくい」のかもしれない。この仮説を確かめるには、翻訳そのものを対象にした別の実験が必要です。
研究者も「読みやすいから」と断定してはいない
一般向けの記事では、AI作品が好まれた理由として「直接的で分かりやすく簡潔だから」という説明が前面に出ています。しかし元論文では、AI作品が解釈しやすいから好まれたというのは、一つの可能性として扱われています。
文学は、簡単に理解できれば高品質というものでもありません。あえて曖昧さや解釈の余地を残す作品もあります。さらに実験では、「言葉遣い」や「自分が楽しめたか」を作者判定の材料にした参加者ほど、むしろ判定を外しやすい傾向も見られました。
「読みやすいからAIっぽい」と思った時点で、すでに間違える可能性がある。なかなか意地悪な結果です。
「AI vs 人間」という比較自体、いつまで成立するのか
そしてもう一つ。現実では、人間とAIを完全に分けること自体が難しくなっています。
将棋では、プロ棋士がAIの示す手を研究し、その合理性を理解して自分の将棋へ吸収しています。では、その棋士が実戦で指した一手は「人間の手」なのか「AIの手」なのか。Excelを使った計算を「人間の仕事ではない」と考えないのと同じように、AIも人間が使う道具へ入りつつあります。
文章なら、人間がテーマを考える → ChatGPTに草案を書かせる → 人間が違和感を見つける → AIに直させる → 人間が削る → またAIに別案を出させる。さて、誰が書いたのでしょう。
おそらく生成AIが本当に変えるのは、「AIが人間より上手に文章を書く」という一点ではありません。人間がAIから学び、AIを使った人間の文章が変わり、AIもまた人間の文章から学ぶ。人間 → AI → 人間 → AI。将棋では、すでに起きていることです。



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