カテゴリー: 哲学

  • ネットでリアルタイム国会中継は「真のエンタメ」になり得るか?――俺はなると思うぞ!

    ネットでリアルタイム国会中継は「真のエンタメ」になり得るか?――俺はなると思うぞ!

    おはこんばんにちは、力学観測研究所のRYOです。

    いきなりですが、国会中継はもっと普通に、ネットでリアルタイム配信されていても良いのではないでしょうか?

    しかも、ただ公式サイトの奥深くで静かに流すのではありません。

    ABEMAの将棋やスポーツ中継のように、

    「今日はこの委員会があります」

    「次はこの議員が質問します」

    「現在、この法案について審議中です」

    くらいの案内が付いていて、誰でも気軽に覗ける形です。

    そして、少し煽り気味に言えば、

    国会中継は、真のエンタメになり得る。

    私はそう思っています。

    もちろん、政治とスポーツやゲームは違います。

    政治は国家運営そのものです。

    法案や予算、外交、安全保障、社会保障など、その結果は私たちの生活に直接影響します。

    勝った、負けた、面白かった、で終わる世界ではありません。

    しかし、だからといって、

    政治は難しく、厳粛で、専門家だけが見るもの

    と決めつける必要もないでしょう。

    政治とスポーツやゲームは同じではありません。

    しかし、人がそこに興味を持ち、継続して観察し、登場人物の特徴や駆け引きを理解していく力学は、かなり似ています。

    将棋を見る人は、最初から全棋士を知っていたのか

    私はABEMAの将棋中継を見ていて、以前は名前すら知らなかった棋士をたくさん覚えました。

    誰が攻め将棋なのか?

    誰が受けに強いのか?

    誰が解説上手なのか?

    誰が意外と天然なのか?

    将棋の実力だけでなく、その人の性格や考え方まで少しずつ見えてきます。

    これはABEMAトーナメントでも同じでした。
    ※将棋のプロ棋士がチームを組んで戦うもの

    もともと一部の有名棋士しか知らなかった人でも、継続して見ているうちに、若手棋士や中堅棋士まで覚えていきます。

    棋士の能力が急に変わったわけではありません。

    見えるようになった。

    ただ、それだけです。

    国会議員も同じではないでしょうか。

    選挙ポスターでは顔を見たことがある。

    名前も何となく知っている。

    しかし、何を考え、どんな質問をし、どんな場面で粘り、どんな答弁を引き出しているのかは知らない。

    そこで、ある日ふと国会中継を見てみる。

    「あ、この人、近所にポスターが貼ってあった人や」

    「意外と数字に強いな」

    「質問の組み立てが上手い」

    「この人、答弁を全然聞いてないな」

    そうやって、政治家が単なるポスター上の顔ではなく、仕事をしている一人の人間として見えてきます。

    政治ヲタが増えても良い

    野球には野球ヲタがいます。

    サッカーにはサッカーヲタがいます。

    将棋にも、釣りにも、車にも、パソコンにもにもいます。

    それなら、政治ヲタがもっと増えても良いでしょう。

    政治ヲタというと、少し怖い印象を持つ人もいるかもしれません。

    しかし、ここで言う政治ヲタとは、特定政党を熱狂的に支持する人のことではありません。

    政策や法案、答弁、委員会運営、交渉の過程を見るのが好きな人です。

    「今日の再質問は上手かった」

    「あの答弁では逃げ切れていない」

    「この法案、最初よりかなり修正されたな」

    「今回は野党の指摘が正しい」

    「いや、この件は政府側の説明の方が筋が通っている」

    そんな会話が、市井で普通に交わされる。

    私は、これはかなり健全なことだと思います。

    政党を丸ごと好きか嫌いかではなく、一つ一つの政策や答弁を評価する。

    共産党の質問でも、正しいものは正しい。

    自民党の答弁でも、筋が通っているものは通っている。

    支持政党と、個別の論点への評価を切り分ける。

    国会中継を継続して見ていれば、そういう見方が自然と身につくはずです。

    野党は本当に何もしていないのか?

    国会中継を部分的な切り抜きではなく、ある程度まとまって見ると、野党の役割も分かりやすくなります。

    政府の説明の矛盾を探す。

    法案の穴を指摘する。

    数字の根拠を求める。

    制度の対象から漏れる人を拾う。

    答弁を引き出し、議事録に残す。

    政府案を止めることだけが野党の仕事ではありません。

    時には修正させる。

    時には条件を付ける。

    時には政府に言質を取る。

    そうやって、行政や立法の暴走を抑えるブレーキとして働いています。

    もちろん、野党の質問がすべて優れているわけではありません。

    単なるパフォーマンスに見える質問もあるでしょう。

    逆に、政府答弁にも、正面から答えているものと、煙に巻いているものがあります。

    だからこそ、切り抜きではなく全体を見る価値があります。

    「100を要求して20を取る」のも政治

    政治家の発言を見ていると、

    「そんな要求、全部通るわけがないだろう」

    と思うことがあります。

    しかし、要求した本人も、最初から全部通るとは思っていない場合があります。

    100を要求する。

    政府がゼロ回答する。

    そこから押し引きが始まる。

    最終的に20を制度へ入れる。

    このような交渉は、政治だけの特殊な話ではありません。

    昔の秋葉原、日本橋、大須では、

    「あの店はいくらだった」

    「ここはいくらにしてくれる?」

    「現金ならもう少し下がらん?」

    という値段交渉が普通に行われていました。

    最初の提示額が、そのまま最終価格ではありません。

    相手の出方を見ながら、落としどころを探る。

    会社の予算交渉でも同じです。

    本当に必要なのが20でも、最初から20を要求したら10に削られる。

    だから30や40を要求する。

    政治家が大きな要求を掲げる姿を見て、

    「また無責任なことを言っている」

    とだけ評価するのではなく、

    「本当の落としどころはどこだろう」

    と考えられる人が増える。

    これも政治を理解するうえで、かなり大事な視点だと思います。

    ただし、当然ながら、すべての大きな要求が交渉用とは限りません。

    本気で100を実現したい政治家もいます。

    そこは継続して見ていれば、その政治家の癖や本気度もだんだん分かってくるでしょう。

    「だったらワシでもできそうやん」

    国会中継が日常的に見られるようになると、政治家に対する見方も変わるはずです。

    政治家は特殊な能力を持つ別世界の人。

    そうではなく、

    人と交渉し、

    相手の説明を聞き、

    問題点を探し、

    修正案を考え、

    周囲を説得する人。

    もちろん、法律、行政、財政、外交などの専門知識は必要です。

    しかし、その土台にあるのは、普通の社会でも使っている能力です。

    会社員として調整してきた人。

    商売で値段交渉をしてきた人。

    現場で制度の矛盾を見てきた人。

    地域の課題を解決してきた人。

    そういう人が国会中継を見て、

    「難しい仕事ではあるけど、全部が異次元というわけでもないな」

    「これなら市議会から挑戦できるかもしれん」

    「だったらワシでもできそうやん」

    と思う。

    被選挙権は、法律上持っているだけでは意味がありません。

    実際に立候補しようと思えるかどうか。

    その心理的なハードルを下げることも重要です。

    政治を見る人が増えれば、政治家を目指す人の裾野も広がるかもしれません。

    政治家も「プロだから批評される」

    政治ヲタが増えれば、当然、政治家への批評も増えます。

    政策、質問、答弁、交渉、委員会運営。

    いろいろな角度から批評されるでしょう。

    すると、政治家の中にはこう言う人も出てくるかもしれません。

    「皆さん簡単に批評しますけどね、我々はもっと広い視野で考えているんです」

    「一応、こちらはプロなんですよ」

    それ自体は、その通りです。

    現場にしか分からない事情もあります。

    公開できない情報もあります。

    長期的な影響を考えなければならない場合もあります。

    しかし、

    プロだから批評されないのではありません。

    むしろ、プロだからこそ批評されます。

    プロ野球監督は、毎試合言われています。

    Jリーグの監督も、選手交代のたびに言われます。

    将棋棋士に至っては、対局直後にAIが最善手を表示します。

    批評のすべてが正しいわけではありません。

    外からでは分からない事情もあります。

    それでも、見られ、語られ、批評される。

    それもプロの仕事の一部です。

    政治も同じで良いのではないでしょうか。

    ただし、政策や答弁への批評と、人格攻撃や誹謗中傷は別です。

    批評されるべきなのは仕事であって、人間性そのものではありません。

    その線引きを保ちながら、政治家の仕事をもっと普通に見て、普通に語る。

    それができれば、政治は今より少し身近になるはずです。

    最後に

    政治を娯楽にしろ、という話ではありません。

    政治はスポーツでも、将棋でも、ゲームでもありません。

    しかし、

    継続して見る。

    登場人物を知る。

    駆け引きを読む。

    技術を評価する。

    自分なりの意見を持つ。

    この力学はかなり似ています。

    そして、政治が一部の専門家や活動家だけのものではなく、市民が日常的に見る対象になれば、選挙も変わるかもしれません。

    年に一度、急に現れた候補者のポスターを見て選ぶのではない。

    日頃の仕事ぶりを見たうえで、

    「あの人に一票入れよう」

    「あの答弁は評価できない」

    「この人を次は国会へ送りたい」

    と判断する。

    そんな政治参加の形があっても良いでしょう。

  • 「京大らしい騒動」の先に見えるもの

    「京大らしい騒動」の先に見えるもの

    おはこんばんにちは。力学観測研究所のRYOです。

    今回の京都大学総長選考のニュース、

    「いかにも京大らしい」ですね~

    引用元:京都大学「異例の総長選考」が波紋、教職員投票で「3位」が新総長に…教員ら反発「なぜ説明がない」

    ニュース要約っぽいもの

    ・京都大学の次期総長選考で、教職員による意向調査で3位だった立川康人氏が総長に選出された。
    ・教員や学生らは、選考過程の透明性や説明不足を問題視し、抗議集会を開催した。
    ・「意向調査」と最終決定との関係や、大学ガバナンスのあり方が議論となっている。

    教職員の意向調査と異なる結果になり、それに対して教員や学生が抗議集会を開く。

    大学の自治や自由の学風を重んじてきた京都大学だからこそ、このような光景になるのでしょう。

    もちろん、教員側には様々な立場や思惑があると思います。(大人の事情。。)

    制度そのものへの問題提起なのか、選考結果への異議なのか、それとも別の考えがあるのか。

    外から見える情報だけで断定することはできません。

    一方で、私が少し応援したくなるのは学生です。

    もし学生の中に、

    「なぜこのような判断になったのだろう。」

    「制度として本当にこれで良いのだろうか。」

    そんな純粋な疑問を持っている人がいるなら、その姿勢はとても大切だと思います。

    社会に出ると、

    「決まったことだから。」

    「そういうものだから。」

    という言葉だけで済まされる場面が少なくありません。

    しかし、本当に成長する人は、その一歩手前で立ち止まり、

    「なぜ?」

    と問いを立てます。

    この問いに必ず一つの正解があるとは限りません。

    だからこそ、自分なりに考え、制度を調べ、人と議論すること自体に価値があります。

    このニュースで一番興味を持ったのは総長が誰になったかではありません。(総長って、○走○みたいな響き)

    その出来事をきっかけに、

    「なぜそうなったのか。」

    自発的に考え始めた学生がいるかもしれない、ということです。

    大学は知識を学ぶ場所ですが、それだけではありません。

    組織の仕組み、人間関係、意思決定、利害関係。

    そうした「社会の力学」を観察できる場所でもあります。

    もし今回の出来事が、誰か一人でも社会の仕組みを考えるきっかけになったのなら、それは大学という場にとって決して無駄な出来事ではないのかもしれません。

    ※3名とも私は存じ上げない人物ですよ!

  • なぜ神社で手を合わせるのか?

    なぜ神社で手を合わせるのか?

    おはこんばんにちは。力学観測研究所のRYOです。

    皆さんは旅行先で⛩️神社⛩️を見かけると、立ち寄ることはありますか?

    私は結構あります。

    でも、不思議なことにお願いする内容は、昔からほとんど変わりません。

    「どうか、このまま無事に家へ帰るまで見守ってください。」

    こればかりです。

    お金持ちになりたいとか、出世したいとか、そういうお願いはほとんどしたことがありません。※でも常に邪念と煩悩はある!

    最近、神社について少し考えることがありました。

    神社へ入ると、

    「空気が違う。」

    「厳かな感じがする。」

    そう感じる人は多いと思います。

    もちろん、木々に囲まれた静かな環境や、街の喧騒から少し離れた立地も影響しているのでしょう。

    でも、それだけでは説明できない何かがあるように思います。

    私は、その空気を作っているのは、

    その神社を何百年も守り続けてきた人々の営み

    なのではないかと思っています。

    誰かが掃除をし、

    誰かが祭りを続け、

    誰かが手を合わせ、

    誰かが大切な人を想い、

    誰かが感謝し、

    誰かが悲しみを祀ってきた。

    その積み重ねが、その場所の空気を作っている。

    そんな気がします。

    だから私は、神社へ一礼することは、

    神様だけに頭を下げているわけではないと思っています。

    この土地を守ってきた人々。

    この神社を受け継いできた人々。

    何かを祀ろうとした人々。

    その「祈る心」に対しても、一礼しているのではないでしょうか。

    面白いのは、自分の地元の神社だけは少し感覚が違うことです。

    子どもの頃、私は神社の境内で友達と遊び回っていました。

    今思えば結構やんちゃでした。

    それでも不思議と、

    「神様に怒られる。」

    という感覚はありませんでした。

    むしろ、

    「地元の神様が、これくらいで本気で怒るわけがない。」

    そんな、子どもながらの安心感がありました。

    もちろん、神社を壊したり汚したりするのは論外。

    でも、境内で遊び、笑い、祭りを楽しむ。

    そんな子どもたちも含めて、地域の神社は何百年も見守ってきたのでしょう。

    一方、旅行先では少し違います。

    そこは自分のホームではありません。

    その土地には、その土地の歴史があり、

    その土地の人々が守ってきた神社があります。

    だから私は、

    「ちょっと通りますよ。」

    「無事に帰れるまで見守ってください。」

    そんな気持ちで手を合わせています。

    力学観測的に考えると、

    神社とは「神様の場所」であると同時に、

    人間が何かを大切にしてきた記憶が積み重なる場所

    なのかもしれません。

    だから神社へ入ると自然と静かになり、

    一礼したくなる。

    それは神様への敬意だけではなく、

    その場所に何百年も積み重ねられてきた人々の営みや祈り、

    そして、それを今日まで守り続けてきた人々への敬意でもある。

    私はそんなふうに考えています。

    もしそうだとすれば、

    神社の厳かな空気というのは、

    神様が作っているだけではなく、

    人間が何世代にもわたって作り続けてきた空気

    なのかもしれません。